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『福沢諭吉と渋沢栄一』城島 明彦 著

発行者 小澤 源太郎 責任編集 株式会社プライム湧光 発行所 株式会社青木出版社 2020年8月15日第1刷 P71


「幕府がオランダから軍艦を購入し、その船に俊才を乗せて海外に送り出して海外事情を調査させてはどうかと川路聖謨(かわじとしあきら)に話したところ、賛成し、その計画を進めることになり、門人の中に適材の若者はいないかと尋ねられたので、数名が浮かんだ。その候補者の中に君の名前も入っている」(拙著「吉田松陰「留魂録」より流用」

(中略)

 福沢と松陰を比べてみると、松陰は辞世の「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」から推測できるように、情熱だけで渡航に賭け、失敗したのに対し、福沢は計画を練り、縁故を有効に活かすなど綿密さで勝り、成功したという大きな違いがあるが、もし、松陰が朗報が届くのを待っていたら、咸臨丸の船上で福沢諭吉と出会い「学問」という共通のテーマで意気投合し、日本の歴史が変わっていた可能性が高い。
 一方、渋沢は、「世の中のことはかくすれば必ずかくなるものである、という因果関係があるのだから、人が世の中に処していくのには、形勢を観察して気長に時期の到来を待てということも、決して忘れてはならない」と「雨夜譚」に記している。
 松陰が密航に失敗したのは二十五歳、福沢が咸臨丸で渡航したのは二十七歳、そして渋沢がパリ万博へ出向いたのは二十八歳。いずれも青年期の出来事である。的を射た譬(たと)えではないかもしれないが、松陰は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の信長型、福沢は「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の秀吉型、渋沢は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の家康型と言えるかもしれない。

 この本はNHKプレミアムの「その時歴史が動いた」で放送した「福沢諭吉」をみて「渋沢栄一」と同じ世代の人だったことを知り、興味を持ち読み始めました。まだ最後まで読み終えていませんが、是非紹介したくて書きました。
 新婚旅行で行った萩、結婚40周年記念で「松下村塾」と松陰神社を訪れ買ってきた書「至誠……」が神棚にあります。吉田松陰は1852年(嘉永5年)弘前市に来ています(処刑されたのは1859年)。本のP18に●福沢諭吉・渋沢栄一大づかみ対比年譜があり、改めて見ると同じころ、1848年福沢諭吉は漢学を習い始め、1846年渋沢栄一は尾高惇忠の塾で論語を習い始めるとあります。
 知りたかったこと、調べたかったことを書いてある本にめぐりあうことができました。